最近、想うことがある。
あたしが今死んだらどうなるんだろう、ということ。

子どもの頃は、「誰か悲しんでくれるかな」とか「あの世ってどんなところなのかな」とか「ずっと死んでいるっていう時の思考はどこに行っちゃうのかな」とかだったんだけど(そりゃあ今でもそんな風に考えることはあるけど)、最近考えているのは、もうちょっと具体的というか、なんか違うことだ。
例えば今あたしが死んだら、もちろん両親は嘆き悲しむだろう。けど、嘆き悲しむだけじゃなく、お葬式のこととかも考えるのだと思う、たぶん。
それでその時、「あの子が好きだった音楽をかけて送ってあげましょう」とかになったとして、
その時流れるのは…TMNetworkなんだな、たぶん。
あたしは今は電気が好きなのに
いやいや、笑い事じゃなく。冗談じゃなく。
あたしの両親というか母にとって、あたしの好きなミュージシャン=TMNetwork、なんだ。10年前くらいで止まってる。だって、親とミュージシャンの話なんてしないもん。っていうか、もしそんな機会があったとしても「電気グルーヴっていう人たちがね…」なんて言ったって通じないだろうし。そしてあたしのCDケースの中には、電気よりもTMのCDのほうが多いからもちろんそこからチョイスされてしまうわけだ、きっと(卓球とか電スチャとか含めたら、そりゃ電気関連のほうが多いけど、そこまで親がわかるわけがない)。
いやいや、だから冗談じゃなくって。
つまりね、そこから派生して考えるわけ。
あたしが今、本当に好きな音楽のことを誤解されたまま人々の記憶に残ったり(「あの子は小室さんがとっても好きだったから…」)
やってた仕事を勘違いされたまま美化されたり(「念願かなって図書館司書だったのにね…」)
現実の交友関係を間違ったままお葬式に呼ばれたり(「サークルで一番仲の良かった○○ちゃんにも連絡しないと…」)
そんな状態になっちゃったとして、あたしそれで死にきれるのか?!って。
(なんか縁起の悪いこと書いてますけど、今のところ死ぬつもりありませんので。念のため。)
最近、全然まっすぐ生きてられてないからさぁ。まっすぐって、自分的にってことね。人道的にどうだとか社会的にどうだとかってことは無視してのことだけど。とにかく、今のあたしがホントのあたしだって思われたまま死んじゃうのって我慢ならないよきっと。
→「今のあたしはホントのあたしじゃない!」なんて若くて青いこと言ってるみたいに聞こえるかもしれないけど、そうじゃなくてね。今のあたしだってあたしですよ、ええ。別人なもんですか。ホントのあたし・ウソのあたし…なんて思春期じゃないんだから。思春期的な意味で言ってるんじゃなくてね。ええと、なんて言い換えたらいいかなぁ…。つまり、「実際はこうじゃなかったんですよ」っていうのを認識してもらえないままじゃガマンならないってことかな。理想とかじゃなくね。だって私は今、理想ではなく現実として電気が好きだし、現実として縁を切った過去の友人たちがいるわけだし。
そう、そんなわけでね、今は死ねないなぁって思うわ、ホント。もうちょっと、なんとかしないと。